林麻依子さん作品の感想

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常世の候 夏



多摩美術大学助手展・林麻依子さん作品の感想

燕の表現

燕の両義性、湿気と乾き、鳥と魚(冬の燕は魚だ)、水中と大気中などは中沢新一さんが書いています。神話的両義性はとても大切だと感じています。燕は渡りの鳥ですが、渡り鳥に人々が色々な想いを乗せてきたことは、古くからの文学や絵画で明らかです。さて燕は燕尾服の形容にあるようにその鋭いテールが形のテーマであると思われます。魚との親和性も「尾」にあるのではないでしょうか。作品からもう少し「尾」を感じたかったです。

 

水のこと

作品の中で、燕のいる場所は水(海、雲などなど)でしょう。水からは月のことを思い起こします。月の両義性は満月と新月、その影響を受ける満潮と干潮、それらから月は水を統べるものとして古く(おそらく縄文時代)から信仰の対象でした。水の相は固体、液体と気体、落ちる水(瀧)と静態の水(池、湖沼)などなど・・・月の朔望は生と再生を繰り返していると観念されてきました。なぜここで月のことを述べたかというと、どうも燕は水に縁がありそうだからです。燕は月=水の両義性と関わるかもしれません。

 

常世の候」の作品名から

谷川健一さん「常世浪を身に受ける」によると、

「私が敦賀市の立石半島にある沓の老女から大正時代の話として聞いたところでは、産婦は四十日たつと、なぎさに建った産屋を出て自分の家に帰る。その時はかならず腰巻一つの裸になって波打ぎわで、波を頭からかぶる。波が立たないときには、海にとびこんで、いっぺん頭から潮をくぐる。雪の降るような寒いときには、まず行水をする盥に湯を沸かして襦袢をしめし、その襦袢を着て海にとびこむ。こうした行為は産のけがれを取り去るという意味をもつのはもちろんであるが、もともとは常世浪を身に受ける行為であったと私はおもう。

敦賀市の立石半島に点在する産屋は海岸のすぐ近くに建っている。なぎさからの距離はせいぜい十数メートルくらいしかない。波の荒い日の多い日本海のなぎさに産屋を習俗がなぜつづいてきたかと言えば、それは常世にもっとも近く、誕生のための一時的な仮住いをもうけたいという願望にほかならぬ、と私は見るのである。」

谷川健一「序章」『常世論』(谷川健一著作集第八巻、三一書房、1988、13p)

谷川さんはさらに、海岸に産小屋の地面には「うぶすな」という砂が敷かれていて、このことが「うぶすな」の原義であるとしています。(谷川健一『古代人のコスモロジー』作品社、2003、32p)

常世とは海の彼方の世界のこと、沖縄のニライカナイです。そして産小屋のある海浜は両義的な空間です。生まれるということは両義的な事実です。死がそうであるのは言うまでもありません。

 

渦巻きについて

長沢蘆雪に『波濤図』(愛知県正宗寺、重要文化財)があります。海浜の岩に激しくぶつかる波を描いたものです。『長沢蘆雪』展の図録(千葉市美術館編、日本経済新聞発行、2000)で見ることができます。その中に波が作り出す渦巻きがあります。私には強い印象がありました。その絵は波濤の打ち付ける海岸という両義的空間を描いたものです。渦巻きはエリアーデは渦巻きのシンボリズムについて起源を不明としながら「象徹的多価値性、その月との親縁関係、稲妻、水、多産性、生誕と死後の生との親縁関係など」を指摘してます。(ミルチャ・エリアーデ前田耕作訳『エリアーデ著作集第四巻イメージとシンボル』せりか書房、1971、186p)

林さんの作品を見て、渦巻き表現が少し控えめかなと感じました。渦巻きはインドのカルパヴリクシャでは大きな渦巻きと小さな渦巻きが連続しています。ケルトの図像に見られる渦巻きもまた大きくまた小さく連続しています。(鶴岡真弓ケルトの想像力 歴史・神話・芸術』青土社、2018、挿画より)渦巻きの図像には大きさの抑揚がつきものです。もう少し大胆に渦巻きの大きさに変化をつけてみてはいかがでしょうか。

 

説明がつく作品はあまり面白くありません。作品自体が両義的でどっちつかずというのもいいのではないでしょうか。私たちは作品を通じて妖しげで不確かな何かを垣間見たいのかもしれません。芸術作品とはあちらとこちら、彼岸と此岸の裂け目を見せてくれるものなのかもしれません。そしてアートの目的は見るものをして世界を新しくすることだと信じています。