曜変天目茶碗について

 

日本にある曜変天目茶碗の三碗が同時に公開されています。窯変天目茶碗は日本にしかありません。中国に伝世品がないのはなぜでしょうか。

中国で今まで発掘品や伝世品なかったのは「窯変」が天意に沿わないものとして嫌われ、破棄されたと考えられてきました。たしかに官窯では
明の文人 何孟春 (1474-1536) が『餘冬序録摘抄』でいうように
「監陶官は、窯変を見れば、必ず毀す。窯変は珍奇ではあるが、朝廷に進呈することは出来ない。進呈する磁器は仕様どうりで瑕疵のないものでなくてはならない。」(彭丹『中国と茶碗と日本と』小学館、2012、113p)とされました。天の意を受けた天子の意思を代弁する監陶官が、窯変という天の意思とは異なる神秘を妖気として嫌ったとのことです。なお日本の中世陶器では「灰被」が神意のスティグマとして喜ばれました。

また中国最初の陶磁専門誌、清・朱琰の『陶説』(1774)には

「窯変極佳、非人力所可致。人亦多毀之、不令伝。」とあり、

窯変は非常に良いが、人の力で出来るものではない。伝わらないように、人はこれを多く毀してしまう。(彭丹、前掲書)としました。これらから彭丹さんは「曜変天目茶碗」中国では不吉な碗として破棄されたとしています。

しかし小林仁さんの「新発見の杭州出土曜変天目茶碗」(『陶説』2012年11月号)によると

2009年杭州市の工場跡地から「曜変天目茶碗」が出土したとのことです。しかもこの工場跡地は南宋皇城遺跡に近く、主要な官衙が集中した場所であり、鄧禾頴南宋官窯博物館長も南宋の迎賓館に当たる場所ではないかというのです。その理由は同じ場所から同時に宋時代の越窯、定窯、建窯、吉州窯、汝窯などの陶磁片が出土したからです。しかもそれぞれ一級品の陶磁片でした。

つまり、「曜変天目茶碗」は宋の宮廷でも貴重なものとして珍重されたのではないかというのです。

考えてみると、明以後の染付のパーフェクトぶりと、宋の「澱青釉紅斑文盤」(永青文庫)などの青磁をみると必ずしも指示通りを目指していたわけではないように思われます。また定窯の碗、たとえば「黒釉金彩蓮束文碗」(MOA美術館)や、吉州窯の玳玻天目茶碗にも完全さとはややかけ離れた印象があります。もちろん同時代の日本の中世陶器と比べれば完成度は圧倒的なのですが、明時代以後の完璧さは無いように思われます。どうも明時代の硬直化した陶磁器製作の指示と、宋時代の感覚は違うように感じられます。どうでしょうか・・・

小林仁さんの調査と陶片画像については下記を参照してください。

https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-26370151/26370151seika.pdf

なお下の画像は上海博物館における北宋時代の「汝窯盤」と元時代の「龍泉窯青釉紅斑洗」です。

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藝術文化雑誌『紫明』第四十四号

美の随想

 

君の名は。』から

 2016年に公開され大ヒットした新海誠監督の『君の名は。』を見る機会がありました。この映画は東京都心の高校に通う建築好きの高校生立花瀧と、飛騨山中 の糸守町の宮水神社に生まれた女子高生宮水三葉の二人が主人公です。二人の体がある時から時空を超えて(瀧の時間は2016年、三葉の時間は2013年)入れ替わるようになってしまったことから話は始まります。二つの時間のずれの中で物語が進み、彗星の落下による糸守町の全滅という結果と、時間のずれの中での予知、全町避難という結果が並行しています。つまり一方には死が、また片方には生があり、タイムマシンが出てくる物語の例にもれず、片方の結果はもう片方の未来を無いものとしています。そして結末は・・・という映画でした。

私はこの映画の途中で、その背景に含まれている深い意味に気がつきました。それは映画の前半で宮水神社の巫女でもある宮水三葉が、神楽舞のあと口咬み酒を作るシーンを見た時です。「口咬み酒」?・・・と頭の中で反芻していると、ネリー・ ナウマンNelly Naumann 1922〜2000)著の『生の緒』(檜枝陽一郎訳、言叢社、2005)に書かれていた口咬み酒のことを思い出しました。そこでDVD でもう一度『君の名は。』を見直してみると、この映画は時空を超えた青春映画であると同時に、縄文時代以来の信仰である月、水と蛇、死と再生をテーマにしているのだということがわかりました。 たとえば宮水姉妹が神楽を舞う神楽殿の背後には太鼓がありますが、そこには蛇の図像が描かれています。手に持つ神楽鈴にはとぐろを巻いたような龍の造形が見えます。龍が水の聖性に関わることはよく知られています。たとえば興福寺の乾漆八部衆立像のひとつ「沙羯羅」は八部衆の龍に相当し、雨を呼ぶ魔力があるとされていますが、立像を蛇が這い上がり頭の上で鎌首を擡げたいるのです。そして映画の中で相方である東京の高校生の名は「立花瀧」です。瀧は龍を含み、水そのものです。 瀧は三葉に会うために飛騨に出かけます。その時に瀧が着ているTシャツには〝Half Moon〟とプリントされています。〝Half Moon〟つまり半月は月の朔望の四相、 すなわち「新月・上弦・満月・下弦」の上弦と下弦です。下弦は現在でも地方に月待ちの民間信仰として残る「二十三夜」にあたります。さらにTシャツの上に羽織るパーカーには月をテーマとする図像(図1)をあしらったマークが付けられてい ます。立花瀧には月がシンボライズされているのです。このように『君の名は。』では、 月、水、蛇(龍)が重要な記号として登場していることがわかります。そこで古代から表わされてきた月、水、蛇について少し考えてみましょう。

民俗学者松前健氏は「ギリシャや、インドの『ウパニシャッド』などでは、死後の霊魂の住む楽土を月世界だと考え、恵まれた霊魂の住む往生楽土であると考えるようになった。そうなると、月神は、もはや単なる自然神ではなく、霊魂の永生や転生を掌る救済宗教の主となる。ギリシャ、ローマの密儀宗教であったエレウシス教、ミスラ教、イシス教、オルフェウス教などの主神や教祖は、いずれも死と復活の伝承で知られ、三日目に蘇生し、新月をシンボルとした像で表わされる。新月は、 ここでは、霊魂の更新と不滅を保証する救済のシンボルである。」と述べています

松前健「月と水」谷川健一編『日本民俗文化大系2 太陽と月』小学館、一九八三)。

古い信仰の中では、月、そして月神は、不死と結びついているのです。

日本の「竹取物語」では、かぐや姫が月へ帰るとき、この世に残した「不死の薬」を駿河の高峰で燃やしてしまいます。その駿河の高峰が「不死の山」を意味する「富士山」です。やはり月が死と再生と関わっていることを示しています。

前述のオーストリア出身の民族学者ネリー・ナウマンは、縄文土器に表れる図像を月と水、不死の観念から考察し、『生の緒』を著わしました。ナウマンは『生の緒』 の中で、井戸尻考古館(長野県富士見町)を中心に、八ヶ岳山麓で発掘された縄文中期の勝坂式土器をアジアにおける新石器時代の遺物の図像と比較しました。特に「藤内土偶」(長野県富士見町藤内遺跡発掘)の調査研究は興味深いものです。縄文時代土器土偶の顔面には左右の眉毛が形作る連続の弧と額上部の円弧か らなる形(図1)が多く見られますが、ナウマンはこの図形は三日月を想起させるとしています。また「眉月」とは三日月の細長い形のことですが、この図形は眉が 形作る額の形として、この「眉月」との親近性を感じさせます。ナウマンは藤内遺 跡出土の「藤内土偶」は額部分に見られる三日月の図形と、後頭部のとぐろを巻く 蛇の造形から月神であったと解釈できるとしています。土偶に見られる月と蛇の組 み合わせは縄文時代新石器時代)の人々に死と再生の観念があったことを示しているのです。

f:id:shig-03:20170223150919j:plain図1

「藤内土偶」には眼から下方に二本の刻まれた線があります。縄文時代のほかの 土偶の目や鼻や口の下にも刻まれた筋線や点線が見られます。ナウマンはその筋線 は月の神の涙、鼻水、涎だと解釈しています。また、中国の新石器時代遺跡の図像学的研究をしたカール・ヘンツェ(Carl Hentze 1883 ―1975)は同様の例が中国の半山遺跡やプレコロンブス期のアメリカにも存在し、これらは月神の涙や鼻水、涎であり、水の神の象徴であり、水を統べるシンボルだと述べています。月から蛇によって運ばれた聖なる水が涙、鼻水、涎として表されており、それは再生 をもたらす水、生命を繁茂させる水、「生」としての水とされたのです。

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中国甘粛省 半山式彩陶

Carl Hentze : Gods and Drinking Serpents. : History of Religions, Vol.42. 1965

 

さらにナウマン縄文時代、再生をもたらす「生(聖)」なる水は酒であり、それは木の実のでんぷん質と涎から作られた口咬み酒であったとしています。口咬み酒とは最も古い酒のひとつです。そして口咬み酒が、月からの神の涎として観念さ れ、聖なる月の水であり、再生の「生(聖)」なる水だったのです。

映画『君の名は。』では、三葉がつくる口咬み酒は再生をもたらす「生(聖)」な る水であり、瀧が宮水神社の聖地でそれを飲むことで、時空を超えた場所に再生し、三葉と出会うのです。宮水神社の聖地(奥の院?)は丸い隕石痕の中にあります。 この丸い形は月のメタファーなのでしょう。そういえば隕石落下前の糸守湖も隕石湖であり、丸でした。聖地の丸と隕石湖の丸は対でそれぞれ新月と満月なのかもしれません。

映画の中で三葉が婆ちゃんと組紐を編んでいます。組紐は瀧と三葉とを結ぶ重要なアイテムとしてシンボリックに出てきますが、組紐は時間を超えて二人を結ぶものであると同時に蛇のメタファーであることが想像できます。あるいはナウマンは縄文土偶の中には臍の緒を描いたものがあると指摘しており、組紐は臍の緒でもあるのかもしれません。

 

映画『君の名は。』は彗星の落下によって町か全滅する物語と、回避される物語か重ねられています。この映画の全体のテーマは死と再生です。そして新石器時代縄文時代)以来の口咬み酒、月と蛇の図像、さらに臍の緒という紐帯のシンホルか死と再生のテーマに重ねられているのです。

「ヨーゼフ・ボイスは挑戦する」という映画について

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ヨーゼフ・ボイスは挑戦する」を見ました。

いまとなっては1982年カッセルのドクメンタ7で、樫の木を7,000本の植えるというのが芸術の社会性ということでは今に至るまでの射程をもったプロジェクトだったんだなあと・・・思いました。このプロジェクトはドクメンタ7の会場前に7,000個の玄武岩が置かれ、市民や企業の寄付で樫の木が様々な場所に植樹すると、その玄武岩を樫の木と同じ場所に立てていったのです。成長するもの(樫の木)と変わらないもの(玄武岩)が対になって各地に出現したのです。植樹が増えるたびにカッセルのドクメンタ会場まえの玄武岩が少しづつ減っていっているのです。映画ではその様子を見ることができました。

監督のアンドレス・ファイエル(Andres Veiel)は、パンフレットの中で、ボイスが唱えた「みんなで意思決定の仕組みを築こう」は、今こそ耳を傾けるべきメッセージです。と述べています。

 

Words by Beuys

 

芸術概念を拡張し始めると、多数派の人々からは異端、狂気、不毛、周縁だとみなされる。

 

笑なしで革命ができる?

 

私は人々の意識を拡張し、

現実の政治状況を語れるようにしたい。

今、民主主義はない。

官僚政治に教育されて、自由な人間になれない。

だから私は挑発する。

 

私はこの腐り切ったシステムの飾りになる気はない。

 

皆が詩人や画家だとは言っていない。

「誰もが芸術家だ」とは社会芸術の意味だ。

新しく出現する芸術には皆が参加できるし、

参加しなければならない。

 

私は批評でなく例をみせる。

芸術家は闘争を好まない。

芸術を違う形で見せたい。

皆の日常に関わるものを。

 

芸術だけが革命的な力を持つ。

人間の自立した創造力ゆえだ。

芸術によって民主主義はいつか実現する。

 

映画『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』パンフレットより

 

林麻依子さん作品の感想

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常世の候 夏



多摩美術大学助手展・林麻依子さん作品の感想

燕の表現

燕の両義性、湿気と乾き、鳥と魚(冬の燕は魚だ)、水中と大気中などは中沢新一さんが書いています。神話的両義性はとても大切だと感じています。燕は渡りの鳥ですが、渡り鳥に人々が色々な想いを乗せてきたことは、古くからの文学や絵画で明らかです。さて燕は燕尾服の形容にあるようにその鋭いテールが形のテーマであると思われます。魚との親和性も「尾」にあるのではないでしょうか。作品からもう少し「尾」を感じたかったです。

 

水のこと

作品の中で、燕のいる場所は水(海、雲などなど)でしょう。水からは月のことを思い起こします。月の両義性は満月と新月、その影響を受ける満潮と干潮、それらから月は水を統べるものとして古く(おそらく縄文時代)から信仰の対象でした。水の相は固体、液体と気体、落ちる水(瀧)と静態の水(池、湖沼)などなど・・・月の朔望は生と再生を繰り返していると観念されてきました。なぜここで月のことを述べたかというと、どうも燕は水に縁がありそうだからです。燕は月=水の両義性と関わるかもしれません。

 

常世の候」の作品名から

谷川健一さん「常世浪を身に受ける」によると、

「私が敦賀市の立石半島にある沓の老女から大正時代の話として聞いたところでは、産婦は四十日たつと、なぎさに建った産屋を出て自分の家に帰る。その時はかならず腰巻一つの裸になって波打ぎわで、波を頭からかぶる。波が立たないときには、海にとびこんで、いっぺん頭から潮をくぐる。雪の降るような寒いときには、まず行水をする盥に湯を沸かして襦袢をしめし、その襦袢を着て海にとびこむ。こうした行為は産のけがれを取り去るという意味をもつのはもちろんであるが、もともとは常世浪を身に受ける行為であったと私はおもう。

敦賀市の立石半島に点在する産屋は海岸のすぐ近くに建っている。なぎさからの距離はせいぜい十数メートルくらいしかない。波の荒い日の多い日本海のなぎさに産屋を習俗がなぜつづいてきたかと言えば、それは常世にもっとも近く、誕生のための一時的な仮住いをもうけたいという願望にほかならぬ、と私は見るのである。」

谷川健一「序章」『常世論』(谷川健一著作集第八巻、三一書房、1988、13p)

谷川さんはさらに、海岸に産小屋の地面には「うぶすな」という砂が敷かれていて、このことが「うぶすな」の原義であるとしています。(谷川健一『古代人のコスモロジー』作品社、2003、32p)

常世とは海の彼方の世界のこと、沖縄のニライカナイです。そして産小屋のある海浜は両義的な空間です。生まれるということは両義的な事実です。死がそうであるのは言うまでもありません。

 

渦巻きについて

長沢蘆雪に『波濤図』(愛知県正宗寺、重要文化財)があります。海浜の岩に激しくぶつかる波を描いたものです。『長沢蘆雪』展の図録(千葉市美術館編、日本経済新聞発行、2000)で見ることができます。その中に波が作り出す渦巻きがあります。私には強い印象がありました。その絵は波濤の打ち付ける海岸という両義的空間を描いたものです。渦巻きはエリアーデは渦巻きのシンボリズムについて起源を不明としながら「象徹的多価値性、その月との親縁関係、稲妻、水、多産性、生誕と死後の生との親縁関係など」を指摘してます。(ミルチャ・エリアーデ前田耕作訳『エリアーデ著作集第四巻イメージとシンボル』せりか書房、1971、186p)

林さんの作品を見て、渦巻き表現が少し控えめかなと感じました。渦巻きはインドのカルパヴリクシャでは大きな渦巻きと小さな渦巻きが連続しています。ケルトの図像に見られる渦巻きもまた大きくまた小さく連続しています。(鶴岡真弓ケルトの想像力 歴史・神話・芸術』青土社、2018、挿画より)渦巻きの図像には大きさの抑揚がつきものです。もう少し大胆に渦巻きの大きさに変化をつけてみてはいかがでしょうか。

 

説明がつく作品はあまり面白くありません。作品自体が両義的でどっちつかずというのもいいのではないでしょうか。私たちは作品を通じて妖しげで不確かな何かを垣間見たいのかもしれません。芸術作品とはあちらとこちら、彼岸と此岸の裂け目を見せてくれるものなのかもしれません。そしてアートの目的は見るものをして世界を新しくすることだと信じています。